2018年




ーーー10/2−−− 宅配便荷物の紛失


 
15年ほど前にアームチェアーCatの編み座バージョンをお納めしたお客様から、座面の紐が切れたから修理をして欲しいとメールが入った。添付された画像を見ると、座の前縁の一部が十数センチに渡ってブッチリと切れていた。ネコにやられたのかと思ったが、自分の体重で磨り減って切れたとのことだった。

 これまで製作した編み座の椅子は、注文で納めた100脚以上の椅子も、我が家で使っている数脚の椅子も、紐が切れたというトラブルは無かった。しかし、座編み職人のK氏の話によると、編み座の紐が切れることは稀にあり、その部位はやはり座面前縁が多いとのこと。今回のようなペーパーコードでは少ないが、イグサではけっこうあるということであった。

 椅子を送って下されば編み直しに出しますと返事をした。K氏の工房は、私の家から車で数分の場所にある。どのようにして送ったら良いかと聞いてきたので、専用の収納箱を送るので、それを使って下さいと答えた。その箱は、製作した椅子を送る際に自作するもので、サイズや作り方が標準化されている。素材は2メートル×1.4メートルのダンボール・シートで、2年に一回くらいまとめて購入している。

 箱を作ってY運輸のステーションへ持ち込み、発送した。7月下旬で、宅配便は繁忙期に入っていた。自家製の野菜を箱に詰めて持ってくる人が次々に訪れていた。混んでいるので、多少日数がかかるかも知れないと言われた。

 次の週になって、お客様からまだ届かないと連絡があった。Y運輸に問い合わせると、探してみると言った。数日して、見付からない、紛失したようだ、との返事があった。保険はかけていなかったが、品物の代金は弁償するので、もう一度送って欲しいとの話だった。

 お客様が海外に出張されたので、この話は8月末まで保留となった。とりあえずキャンセルしようと思い、ついでがあった際にY運輸のステーションでその旨を伝えた。すると、品物の金額はいくらですかとか、その金額の根拠となる証拠はありますか、などと言われた。その箱は購入品ではなく、自分で作っている物だから、金額の根拠というようなものは提示できない、と説明した。すると、責任者とおぼしき女性が出てきて、品物サイズとか、実態が分かるような事を記載した請求書を作って持ってきてくれれば、代金と送料を返金すると言った。

 ずいぶん身勝手な事を言うものだと思った。こちらには何の落ち度も無いのに、この対応は如何なものか。これが大手のショッピングセンターあたりだったら、担当部署の責任者がこちらに出向いて、とりあえず詫びを入れた後、「この場で書類を整えますので、それで了承して頂ければ、代金をお返しするということでお許し願えませんでしょうか」などと、低姿勢で対応するものである。しかし、相手の弱みに付け込んで、居丈高な態度を取るというのは、自分の好むところではない。持参するのは面倒だから、書類を作ったら郵送すると伝えた。車で10分以上の距離があるからである。それに対して、「それではこの封筒と切手をお使い下さい」と差し出すようなことも無かった。

 数日後、書類を作って持参した。相手の対応が鈍いのは目に見えているから、直接渡したほうが無難だと判断したからである。書類を見せると、パートの女性は無愛想な表情で奥に去った。代わりに現れた若い男性責任者が、「事情は聞いておりますので、お持ち下さった書類の端に領収の書き添えを頂ければ返金いたします」と言った。

 手続きが終わり、返金を受け取った後、「こうして何度も出向いたり、書類を作ったり、余計な手間と時間がかかりましたがね」と、軽く苦言を呈した。男性は「申し訳ありませんでした、今後こういうことが無い様に気を付けます」と軽い調子で言った。私は「今回の事では、本当にがっかりしました」と言って店を出た。

 もう少し、客であり被害者でもある者の心情に寄り添った対応ができないものかと思った。もし最初の電話で強硬な物言いをすれば、対応は違ったかも知れない。そういう手段に出る消費者も多いだろう。しかし私は常々、忍耐と寛容を旨とし、なるべく相手を尊重して物事に対処したいと考えている。今回の件は、会社としてのY運輸には責任があるが、ステーションの係り個人に責任は無いと思われる。仮に責任があったとしても、ミスだから仕方ない。多少気が利かなくても、無愛想でも、圧力をかけて困らせるのは気の毒だ。

 そういう私の姿勢は「甘い」と言われるだろうか?




ーーー10/9−−− 危険なキノコ採り


 
9月の下旬から、毎日のように早朝から山に入っている。目的はキノコ採りだ。先日山から戻ると、家内が今年はキノコ採りの事故が多いそうよ、と言った。調べて見たら、県内ですでに8人が死亡しているという。そのうち6人は滑落だ。

 キノコ採りは山の中に入っていくので、危険がつきものである。時には急斜面や岩場を登り降りしなければならない。私もこれまで、ベテランについてそういう場所に踏み込んだことがある。これは実に危険であった。

 砂礫交じりの土の急斜面をトラバースする。眼下は数十メートルの崖。足元がズルズルと崩れ落ちそうになるのを、なんとか騙しだまし体重をかけていく。ホールド(手掛かり)は、硬い土の上の微小な突起程度。斜面に対して体を起こさなければ、スタンス(足掛かり)が不安定になるというのは岩登りのセオリーだが、ホールドが貧弱なので、斜面にしがみつくような姿勢になってしまう。同行したベテランから「体を起こすようにしないと、かえって危ないよ」と声がかかる。そんな事は分かっている。しかしそれができないのだ。元山岳部のプライドはズタズタである。

 岩場の登りもある。高度差は数メートルだが、落ちれば只じゃ済まない。立ちはだかる岩を前にして、しばし悩む。上のほうに手を伸ばして、エイッと乗り越すことは出来そうだ。しかし、その先は見えない。乗り越して行き詰ったら、後戻りをするのはさらに危険を伴う。つまり、一か八かの状況である。岩から剥がされそうになるのを、微妙なバランスでしのぎ、なんとか岩場を越えたときは、神経がボロボロといった感じだった。

 登山家なら、こういう状況ではザイル(ロープ)を出す。滑落する危険があり、滑落したら怪我を負うという状況なら、迷わずザイルを使うのである。しかし、キノコ採りではロープなど使わない。足を滑らして転落したら、一巻の終わりなのである。

 私がこのところ入っている山は、それほど危険な斜面は無い。踏み跡もそこそこ付いている。しかし、一歩を踏み出すのに躊躇するようなシーンは、しばしばある。滑って落ちても、大した怪我をする心配は無い。それでも、恐怖心はぬぐえない。

 最近は、必ず杖を持参するようにしている。斜面で姿勢を安定させるのに、杖は極めて有効である。足だけなら支点は二つだが、杖を使えば三点になる。安定性は格段に上がるのである。冬山登山で使うピッケルも、本来はそのような用途である。

 その杖として使っているのが、半月形の鍬である。これがなかなか具合が良い。柄を杖として使う。鍬の部分は手が届かない木の根元や枝にかけて、体を引き寄せるのに使う。木が無い斜面では、地面に突き刺して手掛かりにする。また、足場が貧弱な場所では、鍬で地面を掘って段差を作り、歩き易くする。万が一、体に触れて怪我をするのを防ぐため、鍬の先を外側に向けて持つことを心がけているが、鋭い刃ではないから、まずその心配は無いだろう。

 杖によって、傾斜地の昇り降りは安全に、楽に行えるようになった。そして、杖の効用はさておいても、おそらく体が慣れてきたのだろう。傾斜に対する恐怖感が薄れてきた。斜面を歩くコツが徐々に身に着いてきたのである。これは、道を歩くだけの登山では感じることが出来ない、ある種の体の変化だと言える。この歳になっても、体には順応性があるのだと、少し嬉しく思ったりする。





ーーー10/16−−− 漆塗りの目止め


 漆塗装の話であるが、目止めに使うペースト状のもの(錆漆という)を作る作業がある。目止めとは、導管が太い材、例えばナラ、ケヤキ、クリなどの導管を埋める加工である。導管を綺麗に埋めると、最終的に仕上げた表面が、鏡のような光沢となる。

 錆漆の作り方は、砥の粉を水で練り、等量の漆を加えてさらに練るべしと、大方の参考文献に書いてある。私もこれまでそのようにやってきた。最近になってネットで目にした記事に、調合の比率について書いてあった。職人は感覚で分量を決めるが、それでは正確さに欠けるし、再現性も無い。だから自分はいろいろ調べて比率を決めてみたとの記述があった。理科系出身の私としては、興味をそそられた。

 知り合いの木工家S氏は、漆塗りの本場輪島で修行をした職人である。氏に電話をして聞いてみた。すると、数値で示すことは出来ないとの答えが返ってきた。氏は理論家なので、数値で教えてくれることを期待したが、やはりそれはかなわなかった。しかし、理由は明快であった。作業環境(温度、湿度)や漆の状態によって最適な比率は変わってくるので、細かい数値を示しても意味が無いとのことだった。

 しかしそれでも、世の中には数値にこだわる人々がいるらしい。輪島の漆芸技術研究所でも、その比率の数値化に取り組んだことがあったとか。結果として、実際に業界で使えるようなデータは出てこなかったそうである。また大学の先生などから、数値を示してくれとの依頼が来ることが、時々あるらしい。学術分野の方々は、やはり数値で押さえたがるのである。

 職人は、経験的に身に付けた感覚で作業をする。それがなんとも頼りないと、第三者は考えがちである。しかし、何ごとも全て数値でデータ化できるわけではない。錆漆の混合という、ごく小さな分野であっても、数値で決めてしまったら、逆に品質のばらつきが生じるようになる。高い品質を追い求めるなら、鋭い感覚に基づく判断が必要なのである。要するに、優れた技能が秀逸な作品を生み出すのである。

 S氏の話では、漆塗りのカルチャー教室などでは、錆漆に限らず、いろいろな事を数値で求められるケースが多いとのこと。素人は数値データを示さないと不満を感じるらしい。まあ、料理教室などでも、食材や調味料の量を細かくグラムで示すことが当たり前になっている。

 私はその話を聞いた瞬間、「素人は初めから上手く行くことを考えるものですからね」と言った。素人を悪く言うつもりはない。趣味でやっている人が、面倒な遠回りを嫌い、手っ取り早く結果を楽しみたいと考えるのは、自然な事だと思う。しかし、プロは最初から上手く行くとは考えないものである。試行錯誤を重ね、経験を積むにつれて、少しずつ高みに上っていくのがプロの仕事である。逆に言えば、一回で上手く出来るような品物は、作品としての値打ちがどうなのかと思う。

 さて、余談だが、先日伝統工芸展を見に行った。入選作品の中に、ケヤキの拭き漆仕上げの器などがあったが、いくつかのものは目止めが施されていなかった。導管がポツポツと、木目に沿って現れていた。以前伝統工芸作家のK氏から聞いた話を思い出した。作家の中には、手抜きではなく、わざと目止めをしない人たちがいるとのこと。理由は、導管が見えるのも木の表情のひとつだから、それを目止めで殺してしまうのは不自然であるということらしい。ちなみに、K氏の作品も会場に展示されていたが、きっちりと目止めが施されていた。私は、やはりその方が美しいと感じた。

 S氏によると、輪島では完全に目止めをすることが標準だそうである。そして、「塗りの勝負は目止めの出来で決まるんですよ」と言った。




ーーー10/23−−− マツタケのシーズン終了


 今シーズンのマツタケ採りが終了した。私は9本採れた。これまでの人生において、自分で見付けて採ったマツタケは2016年の一本だけだったから、格段の進歩である。しかし、22日間、約50時間をかけての結果であるから、ベテランのマツタケ・ハンターからは笑われそうである。彼らは、日に数十本は当たり前という。

 グループとしての成果は21本だった。これも、過去最高だった一昨年の9本を大きく上回った。9人でこの量というのは、またまた他者から笑われそうだが、結果の大小は別として、グループの活動内容は大幅に躍進した。

 今年はマツタケの豊作が県内のニュースで取り上げられた。ちなみに長野県は全国一のマツタケの産地である。過去は広島、岡山、兵庫などがメインの産地だったが、松枯病のために衰退し、10年ほど前から長野がトップになっている。

 県内のある地域で、マツタケを大量に出荷しているシーンが、テレビでを映し出されていた。多く採れ過ぎて、値が下がりそうだなどというコメントも聞かれた。しかし、豊作か否かは、地域によって変わる。マツタケの生育は、夏から秋にかけての降雨量に左右される。夏の夕立は、山一つ越えれば降ったり振らなかったりする。我々の山は、今年はあまり良くなっかたようである。

 山に入り始めてから2週間以上の間、一本も見付からなかった。この期間は辛かった。落し物を探すように、確実に有るものを探すのではない。有るか無いか分からないものを探すのである。ひょっとしたら一本も見付からないまま終ってしまうのではないか、という不安がよぎった。

 10月6日、最初の一本が見付かった。山中に散らばったメンバーに携帯電話で連絡をした。まるで冬山遭難の捜索隊が、「生存者発見!」の一報を発するような、感動の瞬間。一同が現場に駆けつける。これは大変な興奮状態であった。

 メンバーがその場に集合した。これ一つとっても、これまでに無い進歩である。山の中のあるポイントに、電話一本で皆が集まれるというのは、エリヤ全体に関してお互いが理解していることの証である。通常マツタケ・ハンターは単独で行動をし、取れた場所を人に教えたりしない。しかし我々は、グループが一丸となって、マツタケ山の再生に取り組んでいる。山中を整備し、作業道を切り開き、エリヤのマップも作った。そういう共同作業の積み重ねにより、お互いが情報を共有できるようになったのである。

 山に入りだして5年目。まだまだヨチヨチ歩きのプロジェクトだが、全員が力を合わせて取り組んでいけば、この道数十年のマツタケ・ハンターをしのぐ成果が、この先得られるのではないかと思う。

 ところで、マツタケ採りには余禄がある。雑キノコである。あの山には、アミタケと呼ばれるキノコがたくさん生える。いわゆる雑キノコの部類だが、なかなか美味である。今年もいっぱい採れた。いっぺんには食べきれない量を毎日のように持ち帰るので、その度に処理をする家内はいい加減うんざりしたようだ。冷凍庫の中には、ビニール袋に入ったアミタケが、ところ狭しと詰め込んである。

 マツタケにしろ雑キノコにしろ、山の恵み、自然の恵みに変わりは無い。取れた量が多かろうが少なかろうが、一喜一憂せずに、感謝をして頂くのが筋だろう。そして他の余禄もある。早朝から山に入り、登ったり降りたりを繰り返して汗をかくのは、とても気持ちが良い。晴天にでもめぐり合えば、何とも言えない爽快感。そして間違いなく健康にも良い。自宅のすぐそばにこのようなフィールドが存在することを、感謝しないで何としようか。 





ーーー10/30−−− 習い事


 
これまでの人生で、授業料を払って楽器のレッスンを受けたのは、三例しかない。一つは小学校に上がる前の頃のピアノ。姉がレッスンに通うのに、一緒に連れて行かれた私を、どうせならこの子もと母が考えたらしい。その発表会が先生のお宅で開かれたときのこと。どういうわけか私はお漏らしをしてしまった。半ズボンが乾くまでの間、借り物の毛糸のパンツでピアノに向かっている写真が残っている。忌まわしい思い出である。それが原因かどうかは分からないが、ピアノはすぐに止めてしまった。

 二つ目は大学4年の頃、音大卒の若い女性にフルートを習った。フルートは大学の入学祝に親が買ってくれたものだった。笛類の演奏は中学生の頃から好きで、いささか得意でもあった。それを知っていた親が、プレゼントしてくれたのである。理系の大学に進むことになった私が、理科バカにならず、人並みの情緒を身に付けるようにとの思いが込められていたそうである。

 フルートの練習は、独学だった。当時、テレビでフルート教室という番組があった。そのテキストを買い、毎週テレビを見ながら練習をした。しかし、しょせん独学である。しかも、若くて無知だった。楽器の練習がどのようなプロセスで行われるべきか、全く理解していなかった。要するに、基本練習をないがしろにして、曲を吹くことばかりに熱中したのである。従って、ちっとも上達しなかった。

 あと少しで大学も卒業という4年生の秋、急にレッスンを受けることになった。何かのきっかけで、やはり指導者から教わらなければダメだと気付いたのであろう。母の知り合いの人の娘さんが、音大でフルートを専攻していたというので、その人に教わることになった。電車に乗って、お宅まで出掛けて行った。

 私より少し年齢が上とはいえ、相手は若い女性である。何かちょっとしたロマンスでもあったかと言えば、そんな事は全く無い。たいへん厳しい先生だった。最初に音を出した瞬間、「全くダメね、三年間も何をやっていたの?」と言われた。そして「悪い癖が付いているから、この先大変よ」、とも言われた。多少の苦言は覚悟していた私だったが、初対面の人からこんな言い方をされて、完全に打ちのめされた。今から思えば、彼女はやはり専門家だったのである。

 卒業して企業に勤めるまでの僅かな期間だったので、数回しかレッスンを受けられなかった。しかし、我ながら驚くほど変わった。三年間も何をやっていたのだろうと、自分でも思った。このときの経験で、物事はちゃんと分かっている人から教わらなければ上達しないという事が、つくづく身に染みた。

 話は変わるが、勤めていた会社のあるプロジェクトに、S氏という私より10歳ほど年配の人がいた。海外向けのプロジェクトだったのに、S氏は英語が苦手だった。あの会社は、英会話には通訳が付かない。つまり新入社員でも、通訳無しで外国人との打ち合わせに同席した。S氏は、年若い同僚の前で外国人との会話に付いて行けず、ずいぶん辛い思いをしたようである。

 あるとき、S氏は英会話学校に通い始めた。就業後とはいえ、忙しい会社の仕事の合間を縫って学校に通うのは、大変だったと思う。しかも、ビジネスマン向けの、かなり費用が掛かる学校だったそうである。その効果があって、数ヵ月後には見違えるようなS氏となっていた。電話に向かって、まことに堂々と、部屋中に聞こえるような大きな声で、英語で喋っているS氏を見かけるようになったのである。そのS氏が口癖のように言っていた「やっぱり、上手くなろうと思ったら、金をかけなきゃいかん」

 話を戻そう。楽器のレッスンの三つ目は、昨年秋から始めたチャランゴである。60台も後半にさしかかろうという年齢で、未経験の楽器に手を出すというのは、いささか無謀なように思わないだろうか。しかしそのチャレンジが不毛な結果に終り、やはり無謀だったと後悔するのは、正しいプロセスを踏まなかった場合である。年寄りの暇つぶし、手なぐさみ、などというスタンスで、金も時間もケチってしまっては、結局何も得られない。物事に取り組んで得られる充実感とか満足感というものは、もちろん金で買えるものではない。しかし、自分一人の思い入れで、自己流でやっていって、期待通りの成果が得られると考えるのは、いささか虫が良すぎるように思う。

 他者の指導を仰ぐのに費用がかかるというのは、それなりの価値があるという事だ。そしてまともな指導者なら、自分の指導に責任を持つ。良いものは、値が張るのである。S氏の言を待たずとも、良いものを手に入れるためには、金は使わなければならない。